今回、カラウィーンモスクの中心部分について説明してみたい。
中心部分とはモスクにあるメッカの方向を向いているくぼみであるミハラーブのこと。
これがどんな作りをしているか?多少なりとも知りたくなる。普通にメディナを
散策していてマドラサ(神学校)のミハラーブは簡単に見ることができる。下写真が
マドラサのブー・イナニア(左)とアッタリン(右)のミハラーブだ。
では、このカラウィーンモスクのミハラーブはどのようなものか?フランスが
植民地化した時くらいのミハラーブの様子は下の図や写真のようなになっていた。
下の図は中庭(左側)からミハラーブ(右側、矢印)までの身廊部分の断面図。
当時の漆喰装飾が各所に施されているのが分かる。漆喰でコーランのレタリングや
漆喰のムカルナス(鍾乳装飾)や漆喰の透かし彫りなど芸の細かさが伝わってくる。
しかしこの時代の装飾は復元されてあるところとそうでない所がある。フランスが
モロッコに文化省を作り文化財に相当するような物件を本格的に調査を始めた。
フェズではその筆頭格がこのカラウィーンモスクだ。しかし、その頃すでに、屋根が
落ちて朽ちている場所も多くあった。幸いなことに、この断面図がある身廊部分は
図面に残せるくらいの状態だった。下の白黒写真は当時の状況だ。現状は違う。
下の写真はモロッコが独立前のミハラーブの正面映像。周辺は多少違っている。
下の写真がミハラーブ前の天井のムカルナス。たぶん今でも残されていると思う。
現状に近い様子を知るのが下写真だ。左側のくぼみ部分がミハラーブ。右の階段が
イマームが座るイス。イマームとは一般的に「指導者」と訳すが、祭主とでも
言った方がイメージはつかめるのではないだろうかと思うけど・・・・・・
この写真のイスはフランスが最初に調査した時は素晴らしい装飾が残っていたようだ。
しかしいまでは確認しようがない。しかも、当時のイスはイスラム圏で著名な方から
贈られた年代モノらしい。確実な情報は忘れた。
また、漆喰装飾もどのように復元したのか?そのままを補修程度に終わらせたのかは
不明だ。写真の中の漆喰のコーラン部分を見る限り、不明になった部分は無理な
修復はせずに現状保存しているようだ。
FES CITE DE L'ART ET DU SAVOIR より
建物内部をのぞくことができないカラウィーンモスク!
日本でも京都の桂離宮は日本人ですら、簡単に中を見ることのない時期があった。
カラウィーンモスクの場合、モロッコ人は問題なく見ることはできる。だけど画像は
ないし、資料は公表されてない。内部を知るには古い資料にたよるしかない!